【第120回】《寄り道コラム》

日本の「お金」について ~中世では「舶来もの」のお金が人気だった?~

2023.09.06

日本の「お金」について ~中世では「舶来もの」のお金が人気だった?~

 今回の「寄り道コラム」は、みなさんの身近にある「お金」についてのコラムです。

 現在の日本のお金(通貨)ですが、「現金通貨」としては、中央銀行発行の紙幣(銀行券)と、政府発行の硬貨の2つがあります。
(参考ですが、金融機関に預けている「預金通貨(普通預金・当座預金)」を上記の「現金通貨」に合算して「広義の通貨」と呼んでいます。)

日本の紙幣のイラスト

お札の「顔」が変わります

 政府は、2024年度に日本銀行券である1万円、5千円及び千円について新しく発行することを発表しています。デザインも一新し、お札の表面に描かれる人物も変更になります。

※参照元:財務省HP 新しい日本銀行券及び五百円貨幣を発行します : 財務省

 新1万円札の肖像画は渋沢栄一(しぶさわ えいいち)です。「日本の資本主義の父」「日本経済の父」などと呼ばれる人物で、日本で最初の銀行である第一国立銀行(現みずほ銀行)を設立しました。
 新5千円札は津田梅子(つだ うめこ)が肖像画となります。明治政府が欧米に派遣した「岩倉使節団」に加わった女子留学生の1人で、1900年に日本で最初の私立女子高等教育機関である「女子英学塾(現津田塾大学)」を設立しました。
 新千円札の肖像には北里柴三郎(きたざと しばさぶろう)が描かれます。感染症医学の発展に貢献し「近代日本医学の父」とも呼ばれる人物です。1894年にペスト菌を発見しています。「北里研究所」を設立したほか、慶応大学医学部の創設にも尽力しました。

日本で「お金」はいつ生まれたのか?

 では、日本において通貨としての「お金」はいつごろ生まれたのでしょうか?
 古代の「物々交換の経済」においては、米・塩、布などが「モノと交換する機能」を担っていました。国内で初めてつくられた銭貨(金属のお金)は、中国の銭貨を手本に7世紀後半に鋳造された「富夲銭(ふほんせん)」だといわれています(※この貨幣が実際に流通したのか、まじない用に使われる銭貨だったのかについては学説が分かれているようです)。
 708年(和銅元年)には武蔵国秩父郡(現・埼玉県秩父市)から国内初の自然銅が発見され「和同開珎(わどうかいちん)」が鋳造されました。この「和同開珎」以降、平安時代まで12種類の銭貨(皇朝十二銭)が鋳造されました。

和同開珎イラスト

 しかし、国内における銅不足や国家の財政難から、銭貨は新発行の度に品質が落ちていき、経済的な信用が失われていきました。その結果、958年を最後に国内での鋳造が打ち切られ、再び米や絹などが「モノの交換」に使われるようになりました。その後、国内での通貨発行は、江戸時代の「寛永通寳」まで待つこととなりました。

「舶来もの」のお金が大人気だった?

 では、その間、経済取引にとても便利な「お金」はどうしていたのでしょうか。
 国内でお金は鋳造されませんでしたが、それに代わって流通したのが中国から輸入された「渡来銭(とらいせん)」でした。10世紀に宋が建国されると日宋貿易が盛んになり、日本の砂金などと引き換えに「宋銭」が国内に大量に流入しました。そして宋銭が人々の間で広く流通するようになりました。

渡来銭イラスト

 鎌倉幕府・室町幕府は銭貨の官鋳を行わず、外国から銭貨を輸入し国内で流通させました(銅地金を輸出して銭貨を輸入したようです)。室町時代には「渡来銭」として「明銭(みんせん)が広く流通しました。とりわけ、中心部に正方形の穴が開き、表面には「永樂通寳」の文字が上下右左の順に刻印されている「永楽通宝(えいらくつうほう)」がよく知られています(ちなみに戦国時代の武将である織田信長は「永楽通宝」のデザインを織田家の旗印として用いていました)。15世紀になると、個人が国の許可なく鋳造した銭貨も多く出回りました。中国の銭貨を型取った鋳型で造られた「私鋳銭(しちゅうせん)」のほか、独自のデザインを用いた「模鋳銭(もちゅうせん)」も鋳造されました。

国産の「お金」が再登場

 江戸時代になって徳川家康により国内が統一されると、再び国内発行のお金が登場し、貨幣制度が統一されました。1601年には大判、小判、一分金、丁銀、豆板銀の五種類の金銀貨が発行され、1636年(寛永13年)には徳川家光によって銅銭「寛永通寳(かんえいつうほう)」が鋳造されました。ここに金・銀・銅(銭)による三貨制度が確立しました。これによって1670年に渡来銭の使用が禁止されました。

大判小判イラスト

 明治時代になると、政府は政府紙幣(せいふしへい)を発行しました。この時に新しいお金の単位として「円」が創られました。偽造防止のために、政府は外国の印刷会社に紙幣の製造を発注し、模様が細密で色も美麗な紙幣(明治通宝札(めいじつうほうさつ))を発行します。
 1876年に国内で初めて人物の肖像が入った紙幣が製造されました。西南戦争が勃発し戦費調達の目的で紙幣が大量に発行されたことで価値が下落したことから、政府は紙幣の発行数を減らしました。こういった経緯を経て、通貨の価値を安定させるために統一したお金を発行できる中央銀行が求められるようになり「日本銀行」が設立されました。紙幣の発行は「日本銀行」だけが行うことになりましたが、当時は紙幣を金貨や銀貨と引き換えるしくみ(兌換紙幣)になっていました。しかし1942年の日本銀行法で金貨や銀貨と引き換えることをやめ(不換紙幣)、現在のように政府や日本銀行が経済状況に応じて通貨発行量を管理・調整するしくみになりました。

硬貨のイラスト
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